自らが選ぶと言うこと

 

最近「指示待ち族」などと言う言葉をよく耳にします。
この「指示待ち族」、族といういうのですからきっと一人ではない、ましてや族といっても家族や親族ではないということ。
そして他人でありながらも族としてひと括りにしたくなる複数人だということ。

では、なぜ、他人同士がそれぞれ違った環境で生み育てられたのにも関わらず、指示を待つ人達とひと括りにしたくなるような同じような行動をするようになったのでしょうか?

このことからもわかるように、子ども達自身が指示をされないと動けない人格へと成長した!ということではなく、その子どもがそれぞれの成長過程で関わったおとなや環境によって動かない人格を作り上げられているのではないでしょうか?

では、なぜ?「指示待ち」の状態の人格が誕生してしまったのかを少し考えてみたいと思います。

まず、乳児期ではどうなのでしょう?
どちらかというと、言葉や行動で示すことがまだできない世代だとするならば、泣いたり、叫んだりすることで自からの意思を伝えている他者や環境からの影響を受けていないように思います。

では、次に幼児期。
この頃から個人差あるもののそれぞれの価値観というよりも、周りの環境で体験したことの前を始める時期かと思います。そういう意味では、周りに影響を及ばされながら人格形成の初段回とも言えるのかもしれません。

就学期ではどうでしょう?
就学期前半に関しては、まだまだ幼児期と同様な扱いが周知されており「まだ、幼いから・・・」的な扱いを多く受けているように思います。
もうここまでくると次段階では前思春期・思春期と次々にはじまり、もう既にある程度の人格形成は完了しているように感じます。

となると幼児期〜就学期前半には、周りから大きく影響力され、人格形成が行われているということになります。
でも、実際のところはどうでしょうか?
皆さんも上記の見解と同様に思われていて、その対処を取られていますでしょうか?

では、逆に質問をさせていただきたいのですが・・・
就学期の前半頃までのお子様を「まだ幼いから・・・」と何の対処も考えられないのは何故でしょうか?
別の質問をすのであれば、ではいつから始めますか?

そしてその始められた頃のお子様が、親御さんの言うことを聞くと思いますか?
自分は無理なように思います。

その証拠にあまりにもお子さんが言うことを聞かなくなるので、親御さんの口調自体も「〜したいの?」から「〜しなさい!」に変わってしまっているように思います。

「〜したいの?」という言葉にはどうしたいのか?という、子どもがしたいことを知ろうとする親の意思もみえますし、これがしたいの?という状況でも、子どもがしたい!と決めたことを確認しているので、子どもが自ら能動的に動いた結果のように感じます。

しかしながら「〜しなさい!」となった途端に、子どもの意見やしたいことは無視され、しなくてはならないことだけが決まった状況のように感じます。
この様なことが度々起こり、自分の意見を聞いてもらえない状況を経験した思考はどの様な対応を取る様になってしまうのでしょうか?

考えても無駄、どうせダメだと言われる、聞いてもらえない・・・など、負の要素しか生まれません。
全てだとは申しませんが、どうもこれらの声かけが「指示待ち」になってしまう原因の一部を担っている様に感じてなりません。

では、どうすれば?指示待ちじゃないおとなになることができるのでしょうか?
きっとそれは今行われている行動の真逆の行動が必要なのではないでしょうか?

一番分かりやすいところで実行しやすそうなのは、お子さんの気持ちを大切にしていた「〜したいの?」の質問をずっと続けられることではないでしょうか?

お子さんの気持ちや思いを尊重し、自らが決めることのできる環境を整えることがとても大切に思います。
おとなの都合や体裁で縛り付けない様にすること、もちろん社会性に繋がる躾は必要ですが、必要な躾以外は子どものしたいことがある程度聞いてやれる心の余裕も必要な様に思います。

 
最終更新日:2023/03/02(木)23:31

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